空手の道場には、必ず神棚があります。今日の本筋から離れますが、神棚には右前から伊勢神宮の神宮大麻、その土地の神様、最後に道場主が信仰する神様のお札を供えます。空手なら鹿島神宮か香取神宮が多いかと思います。
空手道場の神棚は剣術由来
かと言って空手が神道を信仰しているかというとそうでもなく、空手はその成り立ちから仏教の強い影響があります。そもそも琉球の唐手の先人が日本本土と同じ神道を信仰していたかも微妙です。
空手の道場の神棚は剣術の道場の様式を取り入れたもので、空手古来のものではないと考えています。
そもそも唐手は中国由来、少林拳は(このサイトで信じる説においては)仏教由来、だとすると遡るならバラモン教由来となります。
空手着は柔道由来
少し余談を挟みますが、空手着というものは当然ながら唐手時代には無く、昔の唐手の使い手にとって修行は裸でするものでした。ここもムエタイと同様ですが、唐手は「筋肉の動きを師が確認するため」という理由があります。
しかし本土でそれでは具合が悪いという事か、柔道着を薄くした空手着というものが着用されるようになりました。
空手の名称は仏教由来
そもそも空手という名称は、船越義珍先生が日本本土で空手を広めるにあたり、中国の唐という字の空手から名称を改めようとしていたところ、鎌倉の円覚寺との交流の中で般若心経の「色即是空 空即是色」の空を取り「空手」という名称に改めたものです。
現在も、鎌倉の円覚寺には船越義珍先生を由来とする「空手に先手無し」の碑が建てられ、特に松濤館流系統の空手家の崇敬の対象となっています。
柳生宗矩の「剣禅一如」の教えも当然のこと念頭にはあったのではと思います。
いわば拳禅一如の境地を船越義珍先生は目指したのではないかと思います。
その後の「空」の変遷
上記の通り、空手の「空」は般若心経を由来としていますが、一部のフルコンタクト空手では「手に何も持たぬが空手」と字義を改めています。
これは歴史的にどちらが正しいという事ではなく、どういった姿勢で空手を修めるかのイデオロギーを示したものと解釈しています。
空手は結構ごった煮である
これらのように、空手は日本古来の剣術柔術とは違い比較的歴史が新しいため、必要に応じ他の武道・宗教を取り入れてきた宗教観であると言えます。
柔道で言う講道館のように統一した意思決定が無いため、海外で広まる中で今後も他宗教に接した変化があるのではと思っています。