このサイトでは、空手とキックボクシングを扱います。
「空手じゃなくてキックボクシングを知りたいのに」あるいは「キックボクシングじゃなくて空手を知りたいのに」という人のために、なぜ一緒くたに扱うのか、という歴史的な説明をしたいと思います。
キックボクシングも空手もインドが始まり
空手の起源には諸説ありますが、筆者はこう習った、というのをご説明します。
その昔、インドにはご存知ヨガが勃興します。
ヨガの派生、あるいは一部として、インド武術が成立します。
インドには、古くから多様な武術が発展してきました。以下に代表的なものをいくつか紹介します。
カラリヤパット(Kalaripayattu):前述した通り、カラリヤパットは、インド南部のケーララ州で発展した古代の武術で、素早く優雅で、攻撃的な技術と防御的な技術の両方を備えています。
シラン・クット(Silambam):南インドのタミル・ナードゥ州で発展した武術で、棍棒を使った戦闘技術が中心です。柔軟性やバランス、手首の力を養い、スピードや正確性も重視されます。
カルティ(Kalaripayattu):カルナータカ州やアーンドラ・プラデーシュ州で発展した、武器を用いた戦闘技術です。鎖、槍、剣、短剣などを使い、相手を攻撃・制圧する技術が特徴です。
タンドラヴァダ(Thang-ta):北東インドのマニプル州で発展した武術で、剣や槍、盾などの武器を使い、攻撃や防御を行います。身体的な柔軟性や速度、正確性が求められます。
チョウタン・カラ(Chhau):東インドのオリッサ州やジャールカンド州で発展した武術で、手足の動きが複雑で、相手を欺くための様々なテクニックがあります。また、鎧や仮面を着用することが多いため、舞台芸術としての一面もあります。
これらの武術は、それぞれに特徴的な技術や文化的背景を持ち、多くの人々に愛されています。
ヨガとカラリヤパットの関係
ヨガとカラリヤパットは、両者ともにインドの古代伝統的な身体文化の一部であり、密接な関係があります。
カラリヤパットは、古代インドで戦士たちが身体を鍛えるために発展した武術であり、体力や柔軟性、反射神経を鍛えることが特徴です。同時に、カラリヤパットには瞑想や呼吸法などの要素も含まれており、心身の調和を目的とする側面も持っています。
一方、ヨガは、古代インドで発展した精神的な実践であり、呼吸法やポーズ(アーサナ)、瞑想などを通じて心身を調和させることを目的としています。ヨガは、身体の動きや姿勢を改善することで健康を促進する点で、カラリヤパットと共通する側面があります。
また、カラリヤパットとヨガは、共通する歴史的背景を持っています。古代インドでは、戦士たちは身体と心のバランスを保つために、カラリヤパットと呼吸法、瞑想などのヨガ的実践を併用していました。そのため、カラリヤパットとヨガは、古代インドの身体文化の中で、密接に結びついていたのです。
現代でも、ヨガとカラリヤパットは、健康やストレス解消のための身体文化として、広く親しまれています。また、ヨガとカラリヤパットを組み合わせたトレーニングも存在し、より総合的な身体の鍛錬を目指す人々にとって、興味深い選択肢となっています。
カラリヤパットの成立年については、正確な年代を特定することは困難です。しかし、一般的には、カラリヤパットが発展した時期は、紀元前2世紀から紀元後3世紀の間とされています。この時期は、南インドのタミル地方において、様々な文化的交流が行われていた時期であり、カラリヤパットの発展にも影響を与えたと考えられています。
また、カラリヤパットは、インドの武術の中でも特に古い歴史を持っており、バラタ・ナティヤム(古代インド舞踊)やアーユルヴェーダ(伝統医学)などと同じように、古代インドの文化的遺産の一つとされています。
インド武術からの変遷1:少林拳へ
少林拳の起源については、正確な歴史的な証拠はないため、諸説あります。
伝説的には、少林寺の禅僧、達磨大師(ダルマ)が、中国のヘナン省の少林寺において、禅の修行者たちの健康維持のために、身体を鍛えるための動きを伝えたことが始まりだとされています。また、その後、戦闘技術としても発展し、中国の武術として広く知られるようになったとされています。
一方で、少林寺における武術の発展には、様々な影響があったとされています。たとえば、中国の古代の兵法書『孫子兵法』や、チベットの武術であるボディ・チャクラムなどの影響を受けたとされています。また、少林寺が中国の歴史的な事件や戦争に関わることも多かったことから、少林寺の武術は、実戦的な技術として発展していったとも言われています。
以上のように、少林拳の起源については、諸説ありますが、現代では、達摩による創始説や、少林寺における様々な影響を受けた発展説などが一般的に語られています。
インド武術からの変遷2:ムエタイへ
カラリパヤットがタイへ伝わり、タイの文化と融合して古式ムエタイが形成されたことから、タイの伝説ではインドの叙事詩『ラーマーヤナ』に登場するラーマ王子を始祖としています。
実際にはタイの戦争や白兵戦の中で各民族の戦闘術と関わりながら徐々に発展していった素手素足の格闘の技術が古式ムエタイの原型になっているようです。
シャム時代にミャンマーの属領とされていた頃、アユタヤ王朝の王がミャンマーのタウングー朝との戦争に勝って独立を回復しますが、この戦争時にムエタイが大きな役割を果たしたと『チュー・バサート』に記載があります。
少林拳から唐手へ
沖縄がかつて琉球王国として中国と交流を持っていたことから、中国の武術が伝わったとされています。そのため、沖縄手には、少林拳や拳法、南拳などの中国の武術の技術や思想が取り込まれているとされています。
唐手は、沖縄手をベースに、日本の空手道の影響を取り入れて発展したものです。そのため、唐手には、沖縄手の技術や思想に加えて、空手道の技術や思想が取り込まれています。しかし、唐手が沖縄手に取り入れた中国の武術の影響は、根強く残っているとされています。
やがて空手は日本本土に渡り、現在で言う空手へと変化していきます。
船越義珍の登場
船越義珍。童名は思亀(ウミカミ)、唐名は容宜仁(ヨージニ)。容氏冨名腰家は、泊士族の名門・容氏山田家の支流(分家)であり、代々首里王府に仕えた下級士族(筑登之〈チクドゥン〉家)でした。
早産だったこともあってか幼少の頃は病弱で、そのため母の実家・親泊家で育てられた。当初、医学校入学を希望していたが、士族の象徴である欹髻(カタカシラ・まげ)を切ることが条件であったため断念し、代わりに教員の道を選びました、
船越義珍は、明治18年那覇手の大家・湖城大禎に唐手を師事し、その後首里手の大家・安里安恒に師事することになった。首里貴族である安里が、泊士族の家系である船越に首里手を教授することになった理由は、船越が安里の長男と懇意であったからと言われます。安里は最後の琉球国王であった尚泰侯爵に随行して、明治12年から13年間、東京の麹町の尚家に仕えていたといいます。安里からは特に公相君(クーシャンクー=観空)の型を学び、これは船越得意の型となりました。
船越義珍翁は小学校で教鞭を執りながら、船越は小学生達に唐手も指導し、後に三十有余年続いた教員生活を終えると、船越は先輩や友人たちと私的に沖縄学生後援会や沖縄尚武会などを設立し、学生の支援や唐手の普及、統一の活動を始めます。
大正11年船越は上京して文部省主催の第一回体育展覧会(東京女子高等師範学校附属教育博物館)において、唐手の型や組手の写真を二幅の掛け軸にまとめてパネル展示を行い、翌6月には柔道の講道館に招かれて、嘉納治五郎と柔道有段者を前にして、船越と東京商科大学(現・一橋大学)の学生・儀間真謹の二人で、唐手の演武と解説を行います。このとき船越は公相君(クーシャンクー=観空大)を演武しました。
講道館の演武は型だけの単独演武だったこともあり、乱取り稽古を重視する柔道家には、あまり強い印象を与えることができなかったとされます。唐手の稽古が型のみという問題は、その後も繰り返し柔道家の側から不満点として問題提起されます。船越翁の初期の弟子であった大塚博紀(和道流開祖)や小西康裕(神道自然流開祖)によると、船越は当初15の型を持参して上京したが、組手はあまり知らなかったと言います。このため、大正13年(1924年)頃、大塚が中心となり、他の弟子の小西や下田武らも協力しながら、大塚や小西が学んでいた神道揚心流や竹内流柔術を参考にして、組手が作り上げられます。これが本土における約束組手の誕生となります。大塚はさらに自由組手を唐手に導入しようと提案したが、これには船越が激しく反対し、そのため両者の関係は次第に難しくなったと言われています。
段位の発生
大正13年船越翁は「唐手研究会長・富名腰義珍」の名で、空手史上初めて段位を発行します。段位授与者は、粕谷真洋、大塚博紀、小西康裕、儀間真謹らであったとされます。同年13年10月、慶應義塾大学に唐手研究会が発足し、翌年には東京帝国大学にも唐手研究会が発足し、それぞれ船越が初代唐手師範に就任します。
自由組手、特に競技化には船越翁は反対で、昭和2年に東大の唐手研究会が防具唐手を考案し、唐手の試合化を模索し始めると、船越はこれに抗議して、東大師範を辞任します。晩年までおおやけに空手の試合を認めることはなかったのですが、ただ船越が師範をつとめる大学空手部の中には、すでに昭和10年頃から船越には内緒で自由組手を行っていたようです。
慶應義塾大学唐手研究会が機関誌において、般若心経の「空」の概念から、唐手を空手に改めると発表し、これより空手の表記は「空手」が広まっていきます。当初、沖縄空手界では反発もあったとされますが、昭和10年代になると沖縄でも空手表記が広まったそうです。
昭和10年船越翁は三冊目の著書『空手道教範』で新たに「道」の字を付け、唐手術は「空手道」という呼称に改められました。
船越翁の人柄について、自由組手の問題で袂を分かった大塚博紀は、のちに「船越さんという人は子供のような心の持主で実に正直な人でした」と評価を下しています。船越翁は、生涯自らの流派を名乗りませんでしたが、その系統は一般に松濤館流と呼ばれ、事実上の開祖と位置づけられています。
キックボクシングの成立
昭和34年、タイ人同士によるムエタイの試合が日本で初めて開催されます。日本拳法空手道の創始者・山田辰雄は直接打撃制による空手の試合化を目指しており、その研究の一環としてムエタイに興味を示し、「新スポーツの発足と其企業化計画草案大綱」という企画書を発表し、新スポーツ「空手ボクシング(仮称)」を提唱しました。この企画書の中で山田は「昭和35年の新春を期して、当方競技とやや同系類に属する『タイ国拳法選士団』を招聘」すると発表しました。
昭和37年、山田は空手ボクシングを「第一回空手競技会」として後楽園ホールで開催します。これはノックアウト(打倒勝)、体重別階級、グローブ着用などのルールを採用して行われました。後のキックボクシングやフルコンタクト空手に先駆ける画期的試みでしたが、基本的に寸止めルールを採用する当時の空手界からは無視され、新聞でも「ナグるケる木戸ご免」、「正統派?うたう空手競技会」などと酷評されました。
一方、野口修は1962年(昭和37年)8月24日に後楽園ホールで開催された日本で二度目のムエタイ試合を観戦して感激し、空手対ムエタイの興行の可能性を感じます。野口は空手家にこの構想を打診しますが、この時の相談相手が大山倍達と山田辰雄でした。
1963年、大山道場から黒崎健時・中村忠・藤平昭雄が空手対ムエタイの交流戦に参加し、タイでは「日本から空手が殴り込みに来た」と大変な反響を巻き起こします。結果は2勝1敗で大山道場勢が勝ち越したものの、敗れた黒崎は打倒・ムエタイを誓い、昭和44年にキックボクシングの目白ジムを創設します。
野口修は昭和41年にキックボクシングの名称を考案して日本キックボクシング協会を設立します。空手家やボクサーなど異なる武道・格闘技のバックボーンを持つ選手を集め、4月11日に大阪府立体育会館で初めての興行を開催しました。
このように、ヨガを起源として空手とキックボクシングは密接な関係を持ちます。